- LIFE INSIDER
- ライフスタイル
- 株価下落・SNS炎上。それでもフェラーリが元アップルの鬼才を頼らざるを得なかった理由
連載
山中将司のカー・インサイト

2026年5月25日、フェラーリが初の電気自動車を公開した。車名はルーチェ。イタリア語で「光」を意味する。
1035馬力、4ドア5座、Cd値はフェラーリ史上最も優れた0.254、価格は55万ユーロ(約1億円)から。数字だけを並べれば、十分に立派なクルマである。高性能で、空力性能にも優れ、価格もフェラーリらしい。
しかし公開後の反応は厳しかった。翌日のニューヨーク市場でフェラーリ株は4%超下落した。SNSでは「ニッサン・リーフの方がマシ」「跳ね馬を外せばアップルカーに見える」といった声が広がった。

一方で、内装の評価は悪くなかった。物理スイッチを残し、円形のメーターパネルを三つ並べ、中央のタッチパネル操作は最小限にとどめている。ルーチェを手がけたデザイナーの一人である元アップルのジョナサン・アイブが、かねて口にしてきた「マルチタッチはクルマに載せるべきではない」という考え方が、そのまま形になっている。
つまりルーチェは、単純に出来の悪いクルマではない。むしろ細部を見れば、よく考えられている。問題は別のところにある。
それは、フェラーリに見えない、というただ一点である。
フェラーリは流麗なスタイルを諦めたのか
ルーチェのデザインは、フェラーリ社内のチェントロ・スティーレと、ジョナサン・アイブとマーク・ニューソン率いるラブフロムが共同で進めた。エクソール(フェラーリの持ち株会社)、フェラーリ、ラブフロムの3者がパートナーシップを発表したのは2021年9月。つまり5年がかりの仕事になる。
ここで気になるのは、ラブフロムには量産車をデザインした実績がほとんどない、ということだ。
アイブはアップルでiMac、iPod、iPhoneを生み、ニューソンは数々の家具・カトラリーブランドとのコラボレーションで多くの名作を手がけてきた。いずれも一流のプロダクトデザインの仕事である。ただし、市販車の世界で実績を積んできたカーデザイナーではない。
フェラーリがそれを知らなかったはずはない。それでも初のEVという重要なプロジェクトに、あえて彼らを招いた。
おそらくフェラーリは、パッケージが決まった段階で、既存のフェラーリのような流麗なスタイルを成立させることを早い段階で諦めたのだと思う。
4ドア、5座、EV。床下には大きなバッテリーがあり、前後にはモーターがある。人を5人快適に乗せ、航続距離も確保しなければならない。この時点で、低く構えた2人乗りスポーツカー(ベルリネッタ)とはまったく違う箱になる。
フェラーリらしさの大きな部分は、これまでエンジンとプロポーションが担ってきた。V型12気筒エンジンによる長いノーズ、V8ミッドシップの低い重心、キャビンを前後どこに置くかによって生まれる緊張感。フェラーリは、機械の配置そのものが美しさを生んできたブランドである。
しかしEVでは、その前提が崩れる。モーターはエンジンほど差別化しにくい。V12の音やV8の振動が持つ手応えを、そのまま電動パワートレインで置き換えることはできない。ルーチェがリアモーター部に加速度センサーを仕込み、その振動を増幅して車内に流す擬似サウンドを採用しているのも、失われた感覚を別の方法で補おうとしているからだ。
そう考えると、アイブとニューソンに賭けた理由は理解できる。エンジンやプロポーションでフェラーリらしさを保証できないなら、それ以外の価値で勝負するしかない。そこでフェラーリは、カーデザインの文脈ではなく、プロダクトデザインの文脈に踏み込んだ。
造形としては悪くない。だがフェラーリ的ではない

ルーチェのデザインを冷静に見ると、単に失敗作と切り捨てるには惜しい。
上から見たときのキャビンとボディのつながり、面の張り、ボリュームのまとめ方はむしろ上手い。キャビンだけが唐突に載っているわけではなく、ボディ全体と一体化するように処理されている。前後のオーバーハングやルーフラインの処理にも、かなり慎重な検討が見える。
つまり、デザインそのものが破綻しているわけではない。むしろプロダクトとしてはよくまとまっている。面もきれいで、無駄な線も少ない。空力も考えられている。新しいラグジュアリーEVとして見れば、一定の完成度はある。
問題は、それがフェラーリ的ではないことだ。フェラーリのデザインには、単なる美しさ以上のものが求められる。速そうであること。危うさがあること。機械の熱が見えること。ボディの下にあるエンジンや空気の流れが、造形からにじみ出ていること。止まっていても、すでに走っているように見えること。
ルーチェには、それが薄い。静かで、清潔で、整っている。だが、フェラーリに期待される暴力性や官能性が足りない。これはデザインの完成度の問題ではなく、文脈の問題である。
プロダクトデザイナーとカーデザイナーは、職業として求められるものが違う。デザインには独自の作法がある。クルマを速く見せること、止まっていても速度感を感じさせること、そのための線の引き方や面の張り方が問われる。サイドから見たときの窓まわりのバランス、ピラーの角度、ホイールアーチとボディの比率。動くものに固有の文法がある。
一方でプロダクトデザインは、基本的には止まっているものを扱う。そこに静かに存在すること。手に取ったときに違和感がないこと。空間の中でノイズにならないこと。線の扱いも、造形の考え方も、カーデザインとは根のところで違ってくる。
だからプロダクトデザイナーがクルマを手がけると、速度感のない置物のようなクルマになりやすい。ルーチェへの批判は、おそらくここに集約される。「マウスのように見える」「アップルカーのようだ」「シンメトリーで静かすぎる」という感想は、プロダクト寄りの造形がカーデザインの文脈に置かれたときの違和感を、別の言葉で言っているにすぎない。
マーク・ニューソンが1999年の東京モーターショーで発表したフォード021Cも、まさにそういうクルマだった。全長3.6メートルの4座セダン。観音開きのドア、回転する前席、引き出し式のトランク、Pantone 021Cのオレンジ一色。子どもが描いたクルマのように単純な箱だった。
当時の自動車メディアは、玩具的だ、素朴すぎると評した。だが10年以上が過ぎると、「時代を先取りしていた」という見方が出てくる。2020年代には、いま発表されてもおかしくないコンセプトだったと再評価されるようになった。
ルーチェも、同じ道をたどる可能性はある。最初に酷評され、後から時代が追いつく。そういうデザインは実際に存在する。

























