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一生に一度は見たい東京美術案内
一生に一度は見たい、モデルが泣いて怒った美人画(東京藝術大学大学美術館)(東京藝術大学大学美術館)

美術評論家・ノンフィクション作家の野地秩嘉が、社会人の教養として「一生に一度は見たい美術品」をご紹介。今回は東京藝術大学美術館が所蔵する重要文化財、高橋由一の《美人(花魁)》を取り上げます。
外国へ渡らず、日本で学んだ洋画家
髙橋由一(ゆいち)は江戸期の文政11年(1828年)に生まれた洋画家だ。高橋と同じ年に生まれた人物には西郷隆盛、副島種臣、平野国臣といった幕末の志士たちがいる。また、本連載でも取り上げる日本画家の狩野芳崖(ほうがい)も同じ年に生まれている。
高橋由一が洋画に挑んでいた時期は幕末から明治の激動期だった。時代に寄り添って立身しようと思う者は、画家ではなく、軍人、官吏、実業家を目指した。軍事技術でも政治でも経済でもヨーロッパに学んでそれらを活用すれば、明治政府に雇われる道もあった。
だが、高橋は洋画を選んだ。彼のプロフィールを見ると、最初は狩野派を学んでいる。日本画の技術を得た後、洋画の道へ進み、川上冬崖、チャールズ・ワーグマン、アントニオ・フォンタネージらに師事して、油絵の技術を学んだ。
高橋由一より30年ほど後に生まれた洋画家、黒田清輝はフランスへ行って現地の画家から油絵の指導を受けている。フランスには洋画の画材、絵の具は豊富にあった。黒田以降の洋画家たちはヨーロッパに行って、現地の材料を使い、油絵を学んだ。
一方、高橋由一は日本で洋画を描いた。その当時はまだ画材、絵の具は高価な輸入品しかなく、油絵を描こうと思えば大金を都合つけるか、もしくは自分で工夫しなければならなかった。
高橋は幕府が作った西洋学問研究機関である洋書調所(後の開成所)の画学局に入局して、川上冬崖の下で洋画を修業している。絵の具やオイル(溶き油・揮発性)、洋紙、鉛筆、絵筆も手に入れるのが難しかった時代だ。彼はさまざまな代用品で油絵を描いて学んだ、最後の時代の洋画家だった。
絵に宿る「洋画に追いつき追い越したい」という気配

東京藝術大学の熊澤弘教授はこの絵について、こんな感想を持っている。
「明治に描かれた一連の日本洋画は日本人が油絵という技術を知り始めた時期のものです。『西洋には油絵というものがあるらしい。それをやってみよう』と思ったわけです。高橋由一自身はヨーロッパへ行っていませんが、その後の画家たちはヨーロッパの美術館に行って実物を見て勉強しました。高橋はヨーロッパへ行かず、独力で油絵を学び、完成させたのです。ですから明治時代初期の美術の事例としてはとても重要です。高橋由一が描いた本作品、そして《鮭》は両方ともに重要文化財に指定されています」
私は《鮭》も見ている。《美人(花魁)》《鮭》ともに、今の画家が描いた油絵とは気配が違っている。高橋の絵にはどこか切迫した感情が表れているように感じる。
「西洋の絵に迫りたい。追いつき追い越していきたい」



















